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​新たな時代

設備改良沿線開発進展​

1960年代から70年代にかけて、路線の各所において規格の向上が図られた。時代がちょうど高度経済成長期を迎えていた頃で、愛川電鉄はその波に乗って着実に近郊路線への歩みを進めていた。

1964(昭和39)年からは直接的な輸送力の増強に乗り出し、手始めに鶴川~図師間の複線化を行った。その後も立て続けに工事が行われ、1966(昭和41)年には図師~淵野辺間、翌1967(昭和42)年に淵野辺~上溝間へ複線区間を拡大。1974(昭和49)年には相模四谷まで延長した。また先立って新たに車両基地の機能を備えた四谷検車区が1962(昭和37)年に完成し、同時に開業以来40年近くにわたって使用されてきた上溝車庫はその役割を終えている。

この時期東京圏における労働人口は地方からの流入によってうなぎ登りに増加しており、住宅需要の高まりから従来都市化の及んでいなかった地域にも宅地開発の動きが波及するようになっていた。愛川電鉄の沿線では日本住宅公団(現・UR都市再生機構)によって都内通勤者向けの住宅の大量供給を目的とした町田山崎団地・綾部原団地・鶴川団地の造成が行われ、これを皮切りとして1970年代以降、町田市内の丘陵地を中心に宅地開発が相次いでいる。愛川電鉄自身も1969(昭和44)年に不動産部門を新設しており、以後住宅需要の伸長とともに土地経営は鉄道に並ぶ主要な事業へと成長していく。

大型車登場

 

同じころ、車両面でも大きな変化が見られた。それまで愛川電鉄では親会社の小田急より譲渡を受けた小・中型車で陣容を固めていたが(戦後に自社発注した規格型電車の100形2連×2本を除く)、急激な輸送量の増加に対応するためここへきて車両の大型化が図られたのである。

 

具体的には、小田急NHE車に改良を加えた新造車・200形が1976年に、また愛川電鉄独自の設計を施した300形が1984年にそれぞれ入線し、それまで更新工事を受けながら使われ続けていた旧型車両を置き換えていった。同時に編成単位での輸送力増強を目指し、1972年にラッシュ時における中型車6両の、1983年に大型車6両での運転が開始されている。

 

この頃より、小田急電鉄からの乗り入れ列車にも大型車の4~6両編成が充当されるようになった。当時から小田急線との間に定期の直通列車の設定は無いものの、シーズンによっては相模川の鮎漁解禁日に合わせた「あゆ電」やハイキング客に向けた「宮ヶ瀬号」「城山号」といった新宿からの臨時急行が、専用のヘッドマークも誇らしげに愛川田代や城山へと走る光景が見られた。このような運転は1980年代後半まで続いたが、時流につれて通勤電車での行楽は次第に人気を失い、いつしか歴史の帳へと消えていった。

近年動き

主要駅ホームの大型車6両対応化をもって大規模な改良工事は一旦終了したが、その後も愛川電鉄は1980年代を通して実着な成長を見せていた。ところが1990年代に入ると、安定した経営に俄かに陰りが差すようになる。背景にはバブル崩壊による不動産部門への深刻な影響や、沿線地域における高齢化および開発の遅れによる乗客数の伸び悩みなどがあった。さらに1990(平成2)年の京王相模原線全通は相模原市北部の交通網をより橋本を志向するものへと塗り替え、特に城山線区間の経営に幾らかの打撃をもたらした。

 

こうした状況に対処するため30年来の拡大路線から一転して、1998(平成10)年より一部駅の駅員無配置化、そして翌1999(平成11)年にバス事業の分社化を行うなど徹底した合理化が図られた。経営努力が奏功して2000年代初頭に経営状況は好転し、また沿線人口の微増もあって、頭打ちとなっていた乗客数が僅かながら増加傾向を見せるようになった。

 

以降は更なる業務効率化とともに、これを機にして今後を見据えた沿線価値の向上を図り、駅施設の改良・複合商業施設の整備や駅周辺における街づくりの推進といった多岐にわたる事業展開を推し進めるに至った。時代の変化によって鉄道事業自体が新局面を迎えるなか、愛川電鉄もまた闇雲な宅地開発や旅客輸送への傾倒から脱し、沿線地域や鉄道そのものに新たな価値を創出するべく模索を続けている。

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